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人の命

昨日、注目の裁判で無期懲役という判決が言い渡されましたね。
裁判員裁判で初の極刑が言い渡されるのではないかということで、傍聴席には多くの人が列をなしたとか。
遺族は(多くの人がおそらくそうであるように)被告の極刑を望んだ。遺族の方の気持ちを思うと、それも妥当なのかな、と思ってしまう。でも、本当にそうなのか?

この裁判で考えた、極刑についての現時点での自分の考えを述べておこう。

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結論から言うと、今回の判決が正しかったのかどうか、僕には分かりません。そもそも正しい判決なんてものがあるのかどうかも分かりません。
が、今回考えたことがひとつあります。それは

「遺族の方がこんなに傷ついているのだから」というのが判決の内容には少しも影響を与えてはならない

ということです。それは以下の理由によります。

皆さんは、自分の大切にしている人が殺されたら、犯人に対してどのような感情を抱くでしょうか。当たり前ですが、憎悪しますね。筆舌し難い程の憎しみを持つはずです。
自分の大事な人をこんな目に合わせているのだから、あいつも同じ目に合って当然だ!それでも報われないくらいだ!
自分が遺族だったらきっと今回の遺族の方々のように、被告の極刑を望むと思うのです。でも、それはあってはならないと思うのです。だって。。


もし「遺族の方々がこんなに傷ついているのだから」とか「あいつはこんなにたくさんの人を悲しませたのだから」という理由が判決に影響するなら、

愛する夫や腹を痛めて産んだ子供や自分を産み育ててくれた親がいて、心の底から何でも話せる親友や数え切れないほどの友達がいてみんなから愛されている美しい女性を殺せば死刑になっても
知り合いも友達も家族も恋人もいない一人ぼっちのホームレスは殺しても死刑にならないのでしょうか?

遺族の声に従うのは、これにYESと言ってることだと思うのです。つまり
大事に思ってくれている人がたくさんいる人間だと殺した罪が大きいが
大事に思ってくれている人が少ない人間は殺しても罪は小い
ということになる気がするのです。
それならば罪の大きさは
どれくらいたくさんの人がどれくらい深く傷ついたかという
亡くなった方の周りの人が受けた傷の「量」と「深さ」で決まってしまうことになりはしないでしょうか。
人間が平等じゃなくなるわけです。

しかもこれはよく考えてみると、人ひとりを殺したということには何ら罪を問うていないのですね。
亡くなった方ではなく、周りの人に対して報いるという観点で罪の重さが決められている。


あくまで、加害者が被害者に犯した罪を裁くべきだと思うのです。
ただそれだと人の“間”を壊した罪という問題を置き去りにしているのですが、これ以上は考えられません↓↓
過去の記事:手紙/東野圭吾

被害者の方のご冥福をお祈りします。