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アキヒロワタナベの再生建築について

 既存を活かすからこその価値を😃

原っぱと遊園地

ある建物のナカミ(=機能、プログラム、etc)と外観が一致していること、特定の形態や形式はたったひとつの機能や概念と対応している関係にあること(=モダニズム)が正しく美しいと教えられ、何となくそれに違和感を感じていた。確かにそれは美しい。「今風のカッコイイ建物だなぁ」と思ったサヴォワ邸が実は100年前の人が設計した建物だったことを知った時は、遠い未来を描いて実現し、社会に物事を訴えられる職能なのだということに気づいて感動したものだ。コルビジェがどのようにしてこのカッコいい形態を生み出したのか、図書館に篭りっきりになった。
でも、このやり方をこれからの社会が求めているのだろうか。僕はこれを作りたいのだろうか、という疑問がずっと自分の中にあった。今思えばその方法は、産業革命以降の近代化社会にとっては正しく美しいことであるだろうし、近代化社会の中で生まれ育った世代の人はこれが正しく美しいのだと疑問を挟む余地なく僕らに教えていたのだろう。
ただ、やっぱりこれを繰り返すことには未来を感じない。これから僕は何を目指して建築を作って行けばいいのだろう?そんな同じような疑問を抱き、その疑問に正面から答えている本に出会った。
それがこの本である。

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か

原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ

原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ

■「絶対装飾」について
外装によって建物ヴォリュームを表現していたが
構造体によってヴォリュームを現象させることが出切るようになり、
外装は再び包装に戻った。

→構造という内部と外観が一致することが正しいとされ、それらの分離をもたらす装飾が忌避されてきたモダニズムは、当時の新しい技術と素材によって手に入れられる新たしい建物と生活と社会があったからではないか?
青木純氏は、現代では伝えるべき意味内容を伝達するために建築を作るということに違和感を感じている。それは、建築が建築を通して社会に伝えるべきコトを持っていないからではないだろうか。

■既存と新規をつなぐリノベーション
既存の形式に新しい読み取りを加え、新しいかたちで再生させること。その結果、世の中のコンテクストを変えること。
改装に伴う時間的前後関係を消去することで、既存の空間が持つ形式の別のあり方を提示する。そのために、既存部分と新規部分を反転可能な状態にする。既存部と新規部をシームレスに接続させること。新設部分には時間を捏造する。

■実体に裏付けられることのないリアリティ
見かけが見かけにすぎないことが明示されている。さらにその見かけを作っているモノの正体も明らかにされいる。見かけを作っているモノとは別に実体を作っているモノも明示されいる。そもそも実体に裏付けられていないリアリティ
見かけが実体を隠蔽するのではないリアリティの例
・黒子と人形が相まって作るリアリティ
・素顔と化粧が相まってつくるリアリティ


リテラルなヴォリューム
「ヴォリュームに見える」ことから「ヴォリュームであること」に関心が移った後のこと
ヴォリューム:自分が息をしている空気とつながっているけど、何かしら違う質の空気の塊
フェノメラルなヴォリューム:表面のイリュージョンによって生まれるヴォリューム
リテラルなヴォリューム:空気や光の粒が充満しているように、あるひとつの単位で充満されている空間。
気体のように、充満の仕方はスカスカでなければならない。それ以外の要素はあってはならない。構造体としての柱や壁があってはならない。だから、その要素の組み合わせそのものが構造でなければならない。