再生建築の全てを解説するブログ

 既存を活かすからこその価値を😃

機械のアナロジーと生命のアナロジー

その女性は自分の背丈程もありそうなケースを持ち上げて、事務所の打ち合わせ机の上に置いた。
ドンという音からそのモノは相当な重さだと想像される。
よくこんなもの持って来れたな。。。


彼女は僕が終了した大学院の先輩であり、大学院修了後はさらに建築を学ぶ為にロンドンに渡ったそうだ。その後パリである有名日本人建築家の事務所で数年間のキャリアを積み、最近になって一時帰国しているということだった。転職とリフレッシュ期間中でいろいろな人に話を聞いているみたいで、ロンドンで在学中に作り上げたDiplomaをうちの事務所のボスに見せにやってきたのだ。せっかくなので僕も一緒に見せてもらった。


在籍していたスタジオはとにかくドローイングを重視するタイプだったとのことで、机に重ねられたドローイングは30ミリくらいはあろうかという厚みに達している。設計したプロジェクトの図面はもちろん、設計に着手する前に自分がイメージする空間をひたすら描いてみたり、プロジェクトによって解決しようとしている社会問題などの背景やその根拠となるリサーチから紙で構造体をつくるスタディまで、Diplomaに取りかかってから完成するまでのあらゆる思考の全てを紙に描きだしているようだった。


プロジェクト自体はロンドンの中心地に紙の再生工場をつくるという計画だった。説明を聞くうちに、その建物はある点で非常にユニークな建物に思えた。すなわち建物自体が紙で構成されており、再生される紙が建物の一部となったり、逆に建物を構成している紙が再生紙となって社会に供給される、というプロジェクトなのだと理解した。このアイディアに振れた瞬間、自分の想像とこんなに近い考えを持つ人が実際にいるのだということに心から喜びを感じた。上記の理解が実は全くの誤解だったことは後で知ることになるのだが。


彼女の説明に耳を傾けながら美しい陰影を描く断面図に目をとおし、僕は工場の中で紙が再生される過程を想像した。工場に取り入れられた不要紙が微細に分解されて建物の血肉となっていく様子や、建物の一部が取り出されて紙に生成される様子をイメージした。そうしている間、僕はある2つの書物を連想せずにはいられなかった。


1.方丈記

方丈記

方丈記

今から1000年近く前に鴨長明よって記された日本の三大随筆のひとつに数えられる書物だ。誰でも下記のフレーズは暗唱したことがあるだろう。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。


2.生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

著者は福岡伸一氏という現代の最先端の生物学者である。
この人の主張が端的に現れている部分を抜き出すと、
>>「生物とは自己複製可能なシステムである」
「生命が可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」
「生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にある」
「生命は川のように流れのなかにあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。(略)個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」<<
ちなみにこの福岡氏については過去に伊東豊雄氏とのレクチャーについてこのエントリで書いている。



これら2つの書物

「世界全体を粒子のながれとして、対象を粒子の淀みとして捉えている」

という点で共通している。


通常、僕らはあるものごをを理解するときには部分の集合として全体を理解する。そして、それぞれの部分は特定の役割を担うパーツとして全体を構成していると思っている。つまり、あるものは専門の役割を持ったパーツの最適な組み合わせにより全体が構成されているということを僕らは無意識のうちに前提としている。人の体を例にとると、心臓はポンプ、血管はチューブ、筋肉と関節はベルトと滑車など、全てのボディ・パーツの仕組みは機械のアナロジーとして理解できる、といった感じだ。


こういったものの理解のしかたがいつごろから当たり前になったのか分からない。けれど、人体を機械のアナロジーとして説明したのは17世紀に生きたデカルトである。つまり、だいたい300年くらい前の欧州でデカルト的な機械論がものごとを理解するときの前提となったのだと予想できる。たぶん僕ら日本人も日本が近代化する中でこのような考え方を当然のものとして受け入れてきてんだと思う。そして今日の僕らはいつの間にか最初からあるものは専門の役割を持ったパーツの最適な組み合わせにより全体が構成されていることをものを見るときの前提としている。

それじゃあボディ・パーツをひとつでも取り去った生命はうまく機能しないのかというと、実はそうではないのだ。つまり、僕らが普段ベースにしているものの見方は実はそんなに正しくはないみたいだ(詳しくは著書をお読み下さい)。


そこで福岡氏は生命の身体は機械のように専門の役割を持ったパーツの最適な組み合わせにより全体が構成されているわけではないことを指摘する。僕自身は分子の粒の流れが生み出す”淀み”が生命をつくりだしていると読み取った。そしてこの粒子の流れが生み出す淀みとして生命を捉える福岡氏の視点は、世の中を川の流れのようにとらえる鴨長明の視点と共通するものがある。2人とも、粒子の流れというアナロジーで世界を見ているのだ。これは長い間デカルトによる機械論的な視点しか知らなかった僕らにそれまでとは異なる世界の見方を教えてくれる。


★★★


話を作品の素晴しさに戻すと、この作品の素晴しさは、鴨長明や福岡氏と同じように
「粒子の流れというアナロジーで世界全体を捉えている」
という点だ。


現代まで当たり前に僕らの思考の前提となっている機械論的な世界観をデカルトが説いた欧州で建築を学び、
価値観でも地理的な意味でも地球の裏側に位置していた日本で生まれ育ち、
産業革命によって機械のアナロジーが爆発したロンドンという地に、
次世代の生命的のアナロジーによる価値観を体現するプロジェクトを計画する。
しかもプログラムは機械の時代を象徴する工場である。

機械のアナロジーを生命のアナロジーで乗り越えようとする姿勢は最新の生物工学者にも1000年も前の作家にも通じるような、古くて新しい考えだ。こんな人と作品に出会えてとてもエキサイティングな一日だった。