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近代科学を超えて

何年か前に書いたまま放置していた、本の紹介です。

近代科学を超えて (講談社学術文庫)

近代科学を超えて (講談社学術文庫)



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ある事柄が「科学的」とか「客観的」とかいう言葉で表現される時、その事柄は
「何らかの事実に基づいている」とか、
「得られたデータをもとに理論的に考えると他の結論には成り得ない」
ことが期待されている。


言い換えると


あるデータを得られた全ての人は、同じ結論にいたるのだ。

と僕らは暗黙のうちに思っていて、それを前提に僕らは



科学の発展は新たなデータの発見により得られる。


と普段は思っている。


けど、実際は



科学は事実を離れて成立する


ことをこの本は教えてくれる。



フランシス・ベーコンによる即事実性



そもそも「事実に基づいて物事を考える」という方法は16世紀にベーコンが考えたのもだ。
それまでは実験や解剖というのは「書物に書かれてある事実を確認するため」に行われるもので、書物に書かれてあることと自分の見た物が異なる場合は自分の目の方を疑っていた。

それが当たり前だった時代に事実にもとづく考えを打ち出したのがベーコンというわけだ。


科学の発展は新たなデータの発見により得られる。

という今日の常識は、ベーコンによって生み出されたというわけだ。



だが本当にそうなのか?というのが著者の問い。


著者によれば、歴史を振り返るとむしろ新たな理論が打ち出される時は経験に先立って仮説が導入されて理論は打ち出されている。つまり、科学を進歩させるのは新たなデータの発見ではなく、事実にもとづかない信念なのだ。



ニュートン万有引力


コペルニクスの地動説ー創造主としての神は単純・簡潔を選択したはずという信仰。

事実は理論に依存しているのではないか



「新たに発見されたデータを発展した科学的理論」の代表としてケプラーの第三法則が挙げられている。
ケプラーはデータをもとに帰納的に発見したと考えられており、
ニュートン運動方程式万有引力の法則から演繹可能である。


ケプラーはネオ・プラトニズムの強い影響をうけていたみたいで、「宇宙を構成する数値的な要素の間に、いろいろな種類の調和的関係が成り立っているはずだ」という信仰のようなものを持っていた。つまりケプラーはたまたま新しいデータ(事実)を発見して新しい理論を思いついたのではなく、「創造主としての神は単純・簡潔を選択したはずだ」というネオ・プラトニズム的な信仰を科学的に証明したい、と思いながら望遠鏡を覗いていたと考えられるのだ。


つまり、科学が事実さえ集めればそれで発展するのではないし、理論的発展が見られるのは新しい事実が手に入るときではなく、旧来の事実を別の概念枠で眺め直すというパラダイムシフトが起こったときなのだ。



それでは科学の理論はどうやって転換してゆくのか。それを科学革命期に絞って検証。


コペルニクス革命ー地球中心説から大陽中心説への転換はどのようにして起こったか?




コペルニクスが出てくる前までは地球中心説(天動説)が正しいとされており、「地球を中心としてその周囲を他の星が正円を描くように公転している」と考えられていた。コペルニクスは発想を転換して「大陽を中心としてその周囲を惑星が公転している」と考え、太陽中心説(地動説)を導入したのだ。


どうしてそんな発想の転換ができたのか?


実は地球中心説の理論を事実(観測データ)に適合させようとすると、ものすごく複雑な計算式になるらしい。一方、太陽中心説ではより簡単な計算でスッキリおさまる。だから正しいとコペルニクスは考え、他の科学者もそれを受け入れたのだ。

なぜならより簡潔に説明できるから。

「不動の状態は・・・より高貴で神的であると考えられる。・・・変化、不定の状態は(高貴で神的な)宇宙よりも、地球にこそふさわしい」

「大陽は宇宙の中心に静止しており、この美しい殿堂の中で、このランプを、四方を照らすことのできる(中心という)場所以外のどこにおくことができるというのか」

「大陽は、玉座にいるのであり、その周囲を開店する星々の一族を支配しているのである」

「・・・以前用いられたもの(つまり地球中心説)よりもはるかに数少なくはるかに簡単な仕組みで解く事ができる」


太陽中心説が生まれるときに新しく発見されたデータは何も無い。あるのは計算方法の工夫だけ。



ケプラー 円運動からの脱却



ケプラーネオプラトニズムの影響を強くうけていて大陽大好き。

「世界のあらゆる天体の中で、最も美しいのは大陽である。・・・大陽以外に至高の神にふさわしいとわれわれが判断できるものはない」

同時に彼は「太陽の周りをまわる惑星たちは等速円運動をしている」と考えていた。なせならそれが最もシンプルな運動だから。


地球が大陽の周りを等速円運動をしているのだとすれば、地球の角速度は一定のはずである。が、データの計算結果は違った。
師匠から譲り受けた火星についてのデータを検証してみても、やっぱり違った。なんかおかしい。


ここで普通の人だったらデータか計算が間違えていると考えてしまう。だがケプラーは「地球や火星の軌道は円運動していないのでは?」という疑問に到達した。



理論とデータの整合的な関係


こうしてみると、理論とデータは単一のものどうしが組み合わさるのではなく、複数の理論の優先的な組み合わせとデータとの間に整合的な関係がなりたっていることがわかる。優先的に組み合わせるという点で広く意見の一致が見られる理論が、データと整合的であるという関係をもつ資格を勝ち取るのだ。


つまり、あるデータが考え方Aでは理論aを指示するものだとすると、考え方がBになると理論Aとは全く逆の理論Bを指示するようになるということを示す。つまりデータはきわめて理論依存的だということだ。
データという言葉はラテン語のdare(与える)という言葉を起源としており、与えるという意味がそもそもあるのだけれど、それを与えるのは人間の認識活動である。そして認識は、客観的世界を受け取るということではなく、客観的世界なるもをを作り上げるデータを、自らの手で選び取る作業だ。この場合、選び取る為の人間側の概念上の道具こそ、理論である。


では新しい理論的枠組みは何の手がかりも無くあてずっぽうに作るしかないのだろうか?そしてとりあえず作った理論をデータに当てはめて検証し、理論を修正し・・・を延々と繰り返すしかないのか?
ここで著者は帰納でもなく演繹でもない第三の理論的思考法であるアブダクション(仮説構築とかいう)を挙げている。


続きはまた今度。


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では、また!



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