アキヒロワタナベの再生建築について

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形式化の諸問題/隠喩としての建築ー柄谷行人

いかにも建築家が書いた本って感じのタイトルですが、著者は柄谷行人という思想家、哲学者です。


隠喩としての建築 (講談社学術文庫)

隠喩としての建築 (講談社学術文庫)



この本の中に収められている「形式化の諸問題」という論文が非常に興味深いものだったので、何年かぶりに再読しています。


内容をかいつまんで整理すると、

  • 本書での形式化とは
    • 西洋において19世紀〜20世紀前半に顕在化しはじめた文学や諸芸術の変化のことを指す。
    • これらの変化はパラレルで相互に連関しあっており、物理学・数学・論理学などの変化と照応している。
  • 形式化の特徴とは
    • 自然・現実・経験・指示対象から乖離することによって、人工的・自律的な世界を構築しようとすること。(ちなみにこれは初めの論文タイトルにもなっている「建築への意志」でもある。)
    • 指示対象・意味・文脈をカッコにくくり、それ自体は意味のない項(形式)の関係(差異)と一定の規定をみようとする。
  • 形式化がもたらすパラドックス
    • 科学史や思想史などの理論は、自己言及的(自分が対象とするものに自分自身が属してしまう)である。そのため、どんな理論もメタであることができない。(つまり、あるひとつのルールで完結した世界を創ることは不可能である。*1
    • たとえば、近代科学を超えてという本では
      • 「従来正しいとされてきた理論では説明できないデータが発見されることで、新たな理論が設定される。科学理論はこのことによって進歩する」という考えを否定して、「観察(=データの収集)そのものが実は理論に依存しているのであって、科学理論の発展は仮説がまずあって、それを実証するデータがそれを裏付けるのだ」という主張が展開されている。その主張を補う事例(=データ)もたくさん出てくる。
      • でもよく考えると、この主張自体が「データの発見によって理論の更新が起こるのではなく、理論がデータをフィルタリングしているのだ!」という「理論」に支配されていて、事例(=データ)もその理論によってフィルタリングされて収集されているのではないか、という自分で自分にツッ込むという状況が発生する。

        参考:近代科学を超えて


という感じです。その後はこの「ルールの不完全性」は「形式化」を徹底することで明らかになるという流れに展開していきます。誰がどんな理屈で上記を証明したかは置いといて(ここに興味のある方は本書を読んでください。)、
ぼくが興味を持ったのは

  • あるひとつのルールで完結した世界を創ることは不可能である。
  • 「ルールの不完全性」は「形式化」を徹底することで明らかになる。

という点がある本と繋がることなのです。



その本がこれ

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か

原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か




青木淳さんの師匠である磯崎新さんは本書をともて気に入っていて、ANY会議にも柄谷行人さんを呼んでいるくらい。らしい。青木さんも当然そのことを知っているだろうし、この本を読んでいたのではないだろうか。




つづきはちょっとまた今度。




では、また!



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