修士論文・制作と地域社会圏のはなし
昔の「新建築」を眺めていると、山本理顕さんによる巻頭論文「地域社会圏」が目について久しぶりに再読。当時は「『1住宅=1家族」でないかー、分かる気もする。』くらいに眺めていた記憶が。
当時はシェアハウスなんて一般的ではなかったと記憶しているのですが、この論文から10年が経って、今どきある程度の都会に住んでいる20代30代であれば、シェアハウスに住んでる(た)友達が1人もいない、なんて方が珍しいですよね。この10年で「住む」という行為が血縁とか婚姻に由来する家族だけのものではなくなってしまったってことを痛感させられますな...。
ただ、「地域社会圏」はシェアハウスによくある『みんなで仲良く暮らそうよ😃』というコミュニティ論を目指しているのでは全くない(今思い返すと半分くらいはコミュニティ論として誤解していたけれど...)のです。
「1住宅=1家族」という(未だに)ぼくらが理想としている生活のイメージは、この論文によると、1920年代のヨーロッパで最初に供給されています。一斉に田舎から都市へあつまってきた労働者階級の市民たちは、99%が複数の他人同士で雑魚寝をしているという状況だった。だから、当時は「1家族=1住宅」というのは彼らにとって夢のような生活だったわけで。
それらを獲得するにはとにかく早く・安く・大量につくる必要があるから、規格化・標準化された住宅をどんどんつくる。ついでに家族も「パパ・ママ・私」の核家族を標準化すると、人間もどんどん生まれる。
国力は人口に比例しますから、「1住宅=1家族」として国民を早く・安く・大量に生産することは、格安で国家を運営するための方法だったんですね。で、日本はそれを輸入したというわけですな。
この論文を読むまでもなく、もぅ「1住宅=1家族」は国の運営システムとしては崩壊しちゃっていることは誰の目にもあきらかで、2035年には3 世帯に1 世帯が単身世帯に、7世帯に1世帯が高齢者の単身世帯になっちゃうくらいに「1住宅=1家族」は機能していないのです。下記のとおり出生率なんか大きく2を下回りっぱなしですし。
(厚生労働省 政策統括官 平成29年 「我が国の人口動態」より)
論文自体はこの先も続きがあるのですが、この文章を読んでいて自分の修士論文・制作を思い出しました。ゼミそのものが団地再生をテーマに掲げていて、ぼくは地元北九州のとある団地をテーマにしてこれをどうやって再生させるかを考えていました。
補強とか間取りとかハードの部分はぶっちゃけなんとでもなるのですが(学生だった当時は建設コストなんて検討もつかなかったしw)、どーしてもそれだけじゃこのプロジェクトは上手くいかない気がしていました。
団地単体のハードをリノベーションするだけじゃなくて、都市との関わり方も考えながら広域的なリノベーションを、ソフトも絡めてする必要があるんじゃないか、というのがぼくの修士論文・制作で考えたこと。
具体的にどうするのかっていうことで、団地内の集会所をネオ屋台村として再生するというアイディアを提案しています。集会所に団地外からいろんなものを売りにくる他者を受け入れる場所をつくることで、団地は経済的・文化的に外部とつながることができるし、外部もマーケットに入り込める。双方にとってイイことなんじゃないかぁと自分ではけっこう気に入っています。
で、これがちょうど「地域社会圏」で「1住宅=1家族」が否定されているように、自分(たち)のなかに閉じこもって完結するライフスタイルはもうなかなか難しくて、思い切って他者といろんな価値をシェアしたり交換しながら生きていくほうが、これからはリアルになっていくのかなぁなんて思ったり。
では、また。
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