再読した本のご紹介。
この本は著者である柄谷さん自身の「建築への意思」を体現したものではないか、と思っていたりします。
そのことを最もよく表しているのが、あとがきの冒頭の文章。
私は、一冊の完璧な本を書こうとする気持ちを捨てきれない。どんなにそれを否定してみても、私はたぶん本性的にプラトニックなのだろう。
柄谷さん自身がこの本で書いている通り自律的な論理構造が成立しないとすると、完璧な本が存在し得ないことは自明なはずです。それを知りながら(知るために?)完璧な本を書くことを目指すという態度は、全く「建築への意思」に他ならない。
また、磯崎さんがこの本を愛読していたり、柄谷さんをANY会議にも柄谷行人さんを呼んでいるらしいことから、青木淳さんもこの本に影響されたのではないだろうか。
青木さんが設計する建物の形式的なところはこういう文脈と繋がっていたりするのだろうか、なんて思ったり。
そういえば、青木さんよりひと回り若い世代の建築家は、形式主義的な設計の方法を試す人が多くいた。
新しい形式のオンパレードともいえるようなその様子に、あたかもすでに枠組みが決まっている中で行われるゲームのような雰囲気を読み取られはしないか。
僕達は、暗黙のゲームの前提の中で小さな優劣を競い合いたいのではない。むしろ、結局は何をテーマにできるかが問題であるはずなのだ。
SD 2008 平田さんの講評より
本の話に戻ると、
この本が前半で言わんとすることは、
- 合理性を旨とする西洋的な知はGod as the Great Architect という非合理的な信念に基づいている
- けれど、完全に自立した論理構造は成立し得ない(ゲーテルの不完全性の定理)*1
- だから、世界を論理的に記述しようとすればするほど、逆にその不可能性が論理的に説明されてしまう
- それでも世界を論理的に記述しようとし続ける「建築への意思」が西洋的な知の正体であり、その根本はヘレニズムやヘブライズムに始まったGod as the Great Architect という非合理的な選択である
ということだと思います。
思うに、西洋的な知は「世界が合理的な存在だ!」と思っているだけでなく、「それを創造した神の合理性に少しでも触れたい!」とまで願っている気がしてなりません。
中世の西洋では音楽は人が和音を楽しむものではなく数学的な比例を音として人に伝えるものだったように、西洋ではずっと建築や音楽などの芸術、科学や数学などの学問が宇宙の真理を可視化する作業でした。
彼らがそのような作業を続けてきたモチベーションは、唯一神が創造した完璧な世界を理解し尽くしたいという欲求ではないか、と僕には思えたりします。
柄谷さんは、知を“自然“に依拠しないものとして構築しようとする態度が西洋的な知の初期から既にみられることを指摘して、それを「建築への意思」と呼んでいます。
西洋的な知の初期とはヘブライズム(キリスト教)やヘレニズム(ギリシャ哲学)の事ですが、ここでは特にプラトンやアリストテレスの哲学の事を指します。
彼らが「世界は唯一の主体・意思のようなものによって創造され単一の原理を持つのだ!」と考えたことが、彼ら以前のソクラテス的な世界観と異なる思想を生み、それが現代まで続いているみたい。あんまり詳しくないけれど。
ただ、このプラトニズム的な発想は論理的帰結というよりは根拠なき仮説です。
つまり「建築への意思」はGod as the Great Architect という非合理的な選択に立脚しており、合理性を旨とする西洋的な知は、非合理的な選択が発端だということになります。
言い換えれば、プラトンが提示した壮大な仮説の検証が西洋的な知とも言えるかも知れない。
でも悲しいかな、
そうした隠喩としての建築(=混沌とした自然の生成に対して、一切自然に追うことのない秩序や構造を確立すること)への試みは、それが建築的であればあるほどむしろ自身の不完全性を露呈してしまう。
そうした危機を迎えるたびに更新される「建築への意思」こそが、西洋的な知において重要だと柄谷は指摘しています。
世界を論理的に説明しようとすればするほど、逆に世界が論理的には説明できないことが露わになり、更なる論理が必要になる。この繰り返しには終わりがないことを(おそらく)自覚しつつも、God as the Great Architectが作った世界は合理的秩序を持ち人間はそれを理解できるはずだという信仰を捨てない限り、やめられない。
その上でこの繰り返しを継続する(=God as the Great Architectという非合理的な選択をし続ける)という信念こそが「建築への意思」であり西洋的な知の根本だということでしょうか。*2
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